Astronaut / Skydiver

宇宙飛行士のスカイダイビング

アポロ11号の宇宙飛行士・マイクコリンズ

タンデムスカイダイビング
1981年10月19日、ワールドパラシューティングチャンピオンシップスが終わった翌日、宇宙飛行士であり、外交官、博物館館長そして作家でもあるマイクコリンズが、ついにスカイダイバーになった。 コリンズはUSPAから、フロリダ州ゼファーヒルズで行われた第4回リラティブワークチャンピオンシップスのセレモニーのための名誉ゲストとして招かれていた。USPAからの招待を受けて、コリンズはゲストである間にスカイダイビングをしたいと言い、USPAのディレクターであるアル・キングはコリンズをアメリカで初のAFFファーストジャンプコースを受けた”セレブリティ”にしようと手配した。 もう1人の経験豊かなAFFインストラクター、マイク・ジョンストンがキングを手伝った。 彼は空軍の音速飛行パイロットであり、アメリカで3人目の宇宙遊泳をした人であり、そしてニール・アームストロングが人類史上初の月面着陸をしたときに、月の周りを回っていたコマンドモジュールのパイロットである。マイクは身体的に適しおり、マラソンレースへの情熱の結果、どんな航空機の環境でも完全に平気だった。そして何か新しいことを学びたいと熱望していた。 NASAは宇宙飛行士候補者たちにスカイダイビングをさせることを、危険すぎるという理由で、断固として拒否してきた。だがパラセーリングはOKだった。(パラシュートはコロンビアシャトルのフライト前の全てのロケットのリカバリー時に使われており、宇宙飛行士たちはパラシュートの特性を知っておく必要があった。NASAはその方法にパラセーリングを選んだ) 月曜日の午後遅く、美しいフロリダの天気の良い日、コリンズはギアを身に付け、ゼファーヒルズで有名なDC3である40Tangoへ向かった。 彼はたくさんの空中カメラマンとDZオーナーであるジム・フーパー、そしてUSPA理事のビル・オトリーに付き添われていた。全員が宇宙飛行士と一緒に空を飛びたいと思っていた。 ジャンプランに入って、インストラクターであるキングとジョンストンはファイナルチェックを終わらせ、マイクをドアに位置させ、顔を中に、足をステップに置かせた。 マイクのパフォーマンスは完璧だった。一度回転した後、マイクと、キング、ジョンストンは安定した姿勢になり、マイクは、予め決められていたダミーリップコードのプルを3回行い、その他のAFFのエクササイズも65秒のフリーフォール中に実行された。彼のオープンは計画通りで、周りはすぐに一緒に飛んだ人たちのキャノピーで囲まれた。 マイクによると、彼のランディングは「思っていたよりずっとソフトだった」 ランディングするとすぐ、離陸のときに地上においていった報道の人達に囲まれた。 「また飛びたいですか?」
「もちろん。本当に楽しかったし、とてもエキサイティングだった。」
「スカイダイビングと宇宙遊泳とどちらがより楽しかった?」
「2つとも全く違うものだし、両方ともとてもエキサイティングなので、どちらかとは言えない」
それは、元国務次官補らしい、少し外交的な答えだった。 USPAは彼のジャンプのフィルムを使うのか?
「もちろん。とても誇りに思っている。」 マイク・コリンズのジャンプの映像はその後、正しい最高の例としてUSPAのAFFトレーニングプログラムに統合された。 【注】マイクコリンズ:アポロ11号の宇宙飛行士>>ウィキペディア
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AFF Story

着想から現実まで

A.F.F.プログラム

タンデムスカイダイビング
USPAのAFFプログラムは、スカイダイビング史上最も重要で、最もエキサイティングな発展の1つである。晩年のケネス・F・コールマンによって開発され、1981年9月にUSPAの委員会に採用された。AFFプログラムの名前は、スチューデントが、従来の方式よりも3倍から5倍早く学び、上達できることからつけられた。AFFプログラムは、ただのパラシュートジャンプの方法ではなく、スカイダイビングの方法を教える。AFFのスチューデントはスカイダイビングの基本スキルを7回から10回のジャンプで学ぶが、それまでは同じことを学ぶのに50回のジャンプが必要だった。 70年代はスカイダイビングの技術がものすごく進歩した10年であった。平均的なリラティブワーカーは、10年前なら夢見ていただけの技を普通にやってしまう。そして70年代は、スカイダイビングの装備を発展させた産業の生まれた時代でもある。その装備は、古いスカイダイバーの背負っている軍の余り物のギアや、多くのスチューデントが使っているギアに比べてより軽く、より快適で使いやすい。 スチューデントのトレーニングプログラムも70年代に変化した。トレーニングの方法とスチューデントの装備の変化はほんの少しだったが、”スチューデント工場”と呼ばれたコマーシャルセンターがアメリカ中にできた。これらのセンターは、数が増えていたファーストジャンプスチューデントから、利益を得ていた。その一方で、スチューデントからスカイダイバーになる人の数は少なく、60年代からスカイダイビングを続けている人の数より少ない場合もあった。結果、70年代はドロップアウトしてしまうスカイダイバーの数を、新しいスカイダイバーで埋めることはできなかった。現実は、スポーツも、結果としてマーケットも成長していないということだった。いくつかの装備の製造元は、スチューデントは、最初の経験が楽しいものであればあるほど、続ける傾向があるという。彼らは、もしスチューデントのギアがもっと軽く、もっと快適なものであれば、スカイダイビングをもっと魅力的なスポーツだと思うだろうと感じていた。 1979年までに、いくつかのドロップゾーンは、いろいろな安全装置を備えたタンデムリグを使い始めたが、スチューデントを維持するにはほんの少しの効果しかなかった。それに加え、DZオペレーターたちは、続けるスチューデントよりも、ファーストタイマーを集める方が、経済的に得るものが多いと考えた。
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ケン・コールマン

タンデムスカイダイビング
ケン・コールマンは70年代に起こった急激な革命の中にいた。彼は1969年にクラブトレーニングを実施していたミシガン州のKalamazooでジャンプを始めた。1973年に、彼は彼のスチューデントだった3人と、4Wayリラティブワークの大会に出るためにチームを組んだ。彼のチーム「レインボーフライヤーズ」は、1974年と1976年にナショナルチャンピオンシップスとワールドカップで優勝した。また、1975年にはワールドチャンピオンシップスとナショナルズでも優勝した。この3年の勝利とタイトルを守っている間、ケンとチームの仲間は、練習代を補うため、彼ら自身のドロップゾーンを始め、スチューデントトレーニングをスタートさせた。 それまで、ケンはパラシュートビジネスで生計を立てていた。初めは、タンデムを発展させた会社で、その次の会社もタンデムのパイオニアだった。そして彼は、スカイダイビングの技術の進歩を利用して、新しいスチューデントトレーニングプログラムを作るときだと決意した。 1978年の初め、フロリダのキシミーで、ケンは、今までと違う種類のスチューデントトレーニングプログラムのプランを練り上げた。後に、ケンは活動の拠点となるDZを探し、宣伝文句と共に、フロリダのディランドへ行った。 彼の予想に反して、DZオペレーターのゲイリー・ドゥーピスは理解を示し、そして協力的だった。実はドゥーピスは、60年代終わりに、ハーネスホールドトレーニングに携わっていた。 多くの人がスチューデントとハーネスホールドジャンプをしていた。しかし、ほとんどのジャンプは、スチューデントにより長いフリーフォールを経験させるための1回限りの試みだった。一度ハーネスホールドジャンプをしたら、また元の標準のプログラムに戻ることが多かった。そして、安全性の伴った公式のプログラムのもと、ハーネスホールドジャンプを標準化するという試みがなかったため、時々、これらのジャンプは悲劇に終わることもあった。
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ユニークなプログラム

タンデムスカイダイビング
コールマンのプログラムはユニークで、それまで世界中で使われていた1950年代のビンテージであるスタティックライン方式に変わる方法として受け入れやすく望ましい方法である2つのキーとなる要素を紹介した。 1つ目は彼の方法は安全性が増したということ。 エグジット後の風に、効果的に対処できず、すぐに安定した体勢がとれないスチューデントが、2人の有能なジャンプマスターの手のうちにいるので、ディプロイの間もより安定していられる。 2つ目に、AFFは7つの段階で進行しながら、スカイダイビングのスキルを教えるようデザインされている。プログラムを卒業した人は、USPAのAライセンスを取得するために必要なスキルを全て持っていることになる。ライセンス取得のために十分なジャンプ回数は得られないが、十分なフリーフォールタイムを得られる。このプログラムはジェットコースターのようなものから始まるような今までのトレーニングプログラムをはるかに越えたものである。 プログラム開発の初期に、コールマンはUSPAの委員会から、BSR(それは全てのスチューデントは5回のスタティックラインジャンプが必要とされていた)に対する必要なウェイバーを手に入れた。そのために、コールマンは行動計画と、定期的な進捗状況を提出することを要求された。このようにしてUSPAとその安全委員会はプログラムの最新情報を手に入れた。 1980年の終わりまでに、ドゥーパス、フート・ギブソン、ロッキー・エバンズ、ティーケー・ドンル、チャーリー・キンリンそしてジョン・ロビンズの援助のおかげでAFFプログラムは熟した。 人々はよくどのようにスチューデントを審査するのかと聞く。 実際、スチューデントの審査は、従来のトレーニング方法と全く変わらない。安全なスタティックライン方式でのジャンプができるスチューデントなら、安全なAFFジャンプができる。 違いと言えば、インストラクターとジャンプマスターの審査をより注意深くしなければならないことだ。インストラクターとジャンプマスターは、パフォーマンスを通して信頼を得なければならない。スチューデント役のジャンパーとの実際のスカイダイビングで彼らの能力を証明しなければならない。 インストラクターとジャンプマスターには通信教育でなれるわけがないのは明白である。インストラクターになるための標準化されたコースが必要だ。そこでコールマンはUSPAに選ばれ、アメリカ中のDZを訪れ、インストラクターとジャンプマスターを育て、DZがAFFプログラムを教育用プログラムとして始めることを手助けした。 1981年8月、コールマンはバルーンの事故で亡くなったが、彼のプログラムは生きている。彼と彼の熱意はたくさんの人々に影響を与えた。 USPAのディレクターアル・キングとノースイーストコンフェレンスディレクターのジム・モウレイと、マイク・ジョンストンは、コールマンの仕事であったUSPAのレーティングサティフィケーションプログラムを完成させた。1981年9月、委員会でキングはBSRとレーティングシステムの変更と追加事項そして、AFFプログラムを受け入れることを示した。 委員会はこれらの変更を19対2の大多数で認めた。 その後すぐに、ジョンストンはUSPAに雇われ、AFFセミナーのため、アメリカ中を回った。ジャンパーたちにAFFプログラムを教え、必要なスキルに慣れさせるためののセミナーで1つ気付いたたことは、全ての疑問が解決され、このプログラムが非常に効果的だと分かると、皆同じように熱くなる事だった。このプログラムは、時と共に、発展し進化するだろう。しかしそのために大切なのは、まずプログラムが定着することと、ジャンプマスターとインストラクターが現在のフォーマットのの中で経験を積むことである。 フロリダのディランドでの初のサティフィケーションコースの後、1982年カルフォルニアのぺリスバレーに続いて、アメリカ中でサティフィケーションコースが行われた。AFFに興味のある団体は、USPAやコンフェレンスディレクターに問い合わせてきた。
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BSRの変更点

タンデムスカイダイビング
BSRの変更点 フロリダ、タンパでのUSPAの会議にて、BSRに以下の追加が認められた。 100.22 AFFスチューデント
(a)すべてのAFFスチューデントインストラクションはUSPAのAFFインストラクターの資格を持つものの監督のもと行わなければならない。
(b)すべてのAFFスチューデントのレベル1から7までのジャンプは、USPAのAFFジャンプマスターの資格をもつものの監督のもと行わなければならない。
(c)AFFスチューデントは、AFF受講中にレベル1から7までの目標を完了しなければならない。
100.31 装備について
(d)AFFスチューデントには、タンデムハーネス、リップコードのコンテナ、パイロットシュートで開くメインとAADのついたリザーブパラシュート
(e)AFFのスチューデント、ジャンプマスター、インストラクター各自に目で見るアルチメーター
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